作業ヘルメッターのおんな道

肉体労働系レディ(淑女)の徒然です。フリーランスで造園土木の作業員をしています。お仕事と酒があればどこでも飛んでいきます。酒飲み。日焼け上等!

子供に手が出るラインとは

息子(小4)に昨日

「ねー、ママって俺がどんなことしたらぶん殴る?」と聞かれた。

 

んん?何だ突然。どこまでなら手が出ない、手が出るのラインを聞いてるのか。

親になるとその質問の背景を勘ぐってしまいたくなる。

友達とそんな話題になったのか、殴りたくなるようなことをしでかしたのか、なにか不安なことがあるのか。

「なんで急にそんなこと聞く?なんかあった?」と聞きたくなるがいやいやここはそうではない。純粋な質問かもしれないじゃないか。余計なことは聞かないでおこう。

 

聞き分けも良くなり、物事の善し悪しがある程度は身についてきたお年頃の息子をこれから人生でぶん殴ることなんてあるだろうか・・・と考えてみたが、いやいやむしろこれからかもしれない。何より最大難所「反抗期」を控えている。

 

「俺の成績が落ちたら殴る?」

「いや、殴らない。だって別に誰にも迷惑かけてない。成績が落ちるのは自分の責任。ママの責任ですら無いと思ってるから怒ることも無いと思う。」

 

「大学や高校を中退したら?」

「それも殴らない。それも自己責任。誰にも迷惑かけてない。その代わり掛かった学費を働いて返せとは言うかもしれないね。ちゃんと卒業したら学費はもちろん親が全額払うけど。」

 

「じゃあ、どうしたら殴る?」

息子の思考は成績の基準しか無いのか。全然勉強のことうるさく言ってないんだけどなあ。成績以外の「ぶん殴られるような悪いこと」というもののイメージが無いんだろうな。純粋だ。

 

「明確に誰かを傷つけるようなことをしたら、ぶん殴るし、被害者が受けた同じことを貴方にします。」

たとえば、誰かをいじめていたら。私は貴方に家庭内で同じことをしようと思う。

たとえば、何かを盗んだら。私は貴方の大切なものを盗む。

たとえば、言葉で誰かを傷つけたら。私は貴方を傷つけるように罵倒する。

だから、貴方が誰かに暴力を振るったら、その時が貴方をぶん殴るときじゃないかな。

 

この教育は正しくないと思うし、実際にこんなことが起きても私は出来ないような気がする。自分の子供をいじめることも罵倒することも、きっと出来ない。

 

それでも、悪いことをすると同じくらいの罰が返ってくることは覚悟してもらわないといけない。

と、同時に「罰を受けるほどの悪いこと」というのは家族から返ってくるものだけでは無いということを教えていかなきゃいけない。社会的な制裁がある。

 

家庭の中で叱って終わるような事例ならまだいい。

SNSでの炎上するような馬鹿な行動、内輪の中でのみの話と勘違いしているいじめや、パワハラ、セクハラ、痴漢、それ以上の犯罪。

世間に向けて、一生烙印を押されるような事例が世の中には山ほどある。

自分や家族を超えて誰かを不快にさせるということは、本人がたとえ軽い気持ちであっても一生かかっても取り返すことが出来ない罪となって自分に返ってくる。

子供だから許される、という考え方では無責任。人権は平等であるのだから、罪に年齢は関係ない。

 

大人として冷静に子供に伝えていかなければ行けないと思ってる。

「だめだよ」「いけないことだよ」だけでは伝わらない。実例をあげて「こうなるからな」ということを諭さなければいけない。また、実例だけでは事実は伝われど、感情は伝わらない。実は、この「感情」を動かすことが事実より大切だと思うのだ。誰かを幸せにするパワー以上に、誰かを不快にするパワーというのはとてつもなく大きく影響力がある。負の力というのは強靭で、巨大だ。

 

「周りは嫌な気持ちかもしれないが、俺は別に不快じゃない」

これが本当に危ない。

「自分は不快じゃないから、やってもいい。」

何より避けなければいけないのはこの感情だと思う。

自分がおもしろ半分でやってしまったことが、知らない誰かにとっては腸の煮え返るような怒りを発生させていることもある。賠償金や、懲役というような事実はその後から必然的に伴ってきているものであって、それは「物理的なモノ」に近いと思う。

 

モノを返しても、感情は返らない。

 

子育てはこういう教育の繰り返しで、「幸せ」と「不幸せ」は表裏一体であるということも同時進行で教えていかなければいけないと思う。自分の幸せ・自分の不幸せ・誰かの幸せ・誰かの不幸せ。当たり前のようで、当たり前ではない。教えないと分からない。自分の「当たり前」が子供にとっての「当たり前」とは限らない。自分と子供は全く違う人間なのだ。

 

図らずも、息子に聞かれた「どこから手が出る」質問により根深く考えることになった。結果としてとても良かった。自身の襟を正すキッカケになった。